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レイチェル・カーソンのプロフィール

●レイチェル・カーソン

 環境問題の古典「沈黙の春」の著者として知られるレイチェル・カーソンは、1907年5月27日、ペンシルヴァニア州のスプリングデールで生まれ、1964年4月14日、ワシントンの郊外シルヴァースプリングで死去しました。

▲スプリングデールの生家

 彼女は、幼いときから将来は作家になることを夢見ていましたが、大学時代に生物学などにふれるなかで進路をかえることになりました。

▲レイチェル・カーソンが学んだ大学の寮(現在のチャタム・カレッジ)

 そして、大学院の夏期研修でウッズホール海洋生物研究所であこがれの海と出会い、海に生きる生物たちと強い絆で結ばれ、海洋生物学者としての研究生活をはじめたのです。

▲ウッズホール海洋生物研究所

 やがて、父親の死という事態のなかで、彼女は連邦漁業局の公務員に就職することになります。彼女は、海を題材にした放送番組の台本を書いたり、政府広報物に自然保護地域のレポートを書いたりするなかで集めた資料をもとに書いた「われらをめぐる海」がベストセラーになり、海の作家としての才能がみとめられ、ベストセラー作家として文筆業に専念するにいたるのです。
 彼女は生涯のうちに、「潮風の下で」(1941)、「われらをめぐる海」(1951)、「海辺」(1955)、「沈黙の春」(1962)、「センス・オブ・ワンダー」(1965)という作品をのこしました。これらの作品はいずれも、彼女の、科学者としての目と作家としての豊かな感性をいかしたものでした。

▲沈黙の春 ▲生と死の妙薬
(SILENT SPRING本邦初訳版)
▲「沈黙の春」を執筆したワシントン郊外のシルバースプリングの家
ここで56歳の生涯を終えた。

 さて、よく知られるように、彼女は、1958年1月、一通の手紙をうけとったことから「沈黙の春」を書かざるをえないことになりました。当時、アメリカでは、化学物質がつぎつぎと開発され、実用化されていましたが、その危険性についてはあまりにも知られることなく、大量生産、大量使用されるという状況にありました。なかでもDDTなどの殺虫剤が空中散布されるなど無思慮な使用実態がありました。「沈黙の春」は、このような実態を告発するものでした。

 「沈黙の春」は、1962年に出版されるやただちにアメリカ社会をゆりうごかすことになりました。そして、危険な殺虫剤の使用に歯止めをかけることになるのです。

 この「沈黙の春」は、人間中心の考え方・行動が、いかに自然環境に影響を与えたかを実例をあげて述べています。

 この地上に生命が誕生して以来、生命と環境が、たがいに力を及ぼしあいながら、生命の歴史を織りなしてきました。しかし、多くの場合、環境のほうが、植物、動物の形態や習性をつくりあげ、地球が誕生してから過ぎ去った時の流れを見渡しても、生物が環境を変えるという逆の力は、ごく小さなものにすぎません。しかし、二十世紀というわずかのあいだに、人間が、科学技術という強大な力を手に入れて、自然を変えようとしています。

 また、自然の生態系のなかには「食物連鎖」と「生物濃縮」という仕組みがはたらいています。カーソンは、この「食物連鎖」と「生物濃縮」をへて環境汚染がジワリジワリとすすむことに警告を発しています。

 「静かに水をたたえる池に石を投げこんだときのように輪を描いてひろがってゆく毒の波――石を投げこんだ者はだれか。死の連鎖をひき起こした者はだれなのか。」彼女の問いかけは実に鋭いのです。

 化学物質の汚染の影響はさいごに人間にまで及びます。

 「人間は自然界の動物と違う、といくら言い張ってみても、人間も自然の一部にすぎない。私たちの世界は、すみずみまで汚染している。人間だけ安全地帯へ逃げ込めるだろうか。」(沈黙の春より)

 とくに重大なのは、ひとりの人間が汚染されるのにとどまらず、遺伝子の損傷により人類全体の未来が危機に瀕することが予想されるからです。

 「いまでは人工的に遺伝子そのものがゆがめられてしまう。まさに現代の脅威といっていい。<私たちの文明をおびやかす最後にして最大の危険>なのだ」というのです。

 最終章の冒頭の一節ではこう述べています。「私たちは、いまや分れ道にいる。――長いあいだ旅をしてきた道は、すばらしい高速道路で、すごいスピードに酔うこともできるが、私たちはだまされているのだ。その行きつく先は、禍いであり破滅だ。もう一つの道は、あまり<人も行かない>が、この分れ道を行くときにこそ、私たちの住んでいるこの地球を守れる、最後の、唯一のチャンスがあるといえよう。」(沈黙の春)

 現代の文明全体への問題提起ではないでしょうか。

 彼女は「沈黙の春」出版の2年後1964年に世を去りました。没後、1965年に出版された「センス・オブ・ワンダー」は、彼女の最後のメッセージです。

▲THE SENSE OF WONDER
(センス・オブ・ワンダー)

 「センス・オブ・ワンダー」は、最初はある雑誌に掲載されたものですが、彼女の死後、あらためて出版されたものです。いわば彼女の最後のメッセージというべきものです。

 この作品は、姪の子どもであったロジャーをひきとり養育していくことになった彼女が、ロジャーとメインの森や海を舞台に自然体験をともにしたことをエッセー風にまとめたものです。

 「子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない<センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目をみはる感性>を授けてほしいとたのむでしょう。」

 「地球の美しさと神秘を感じとれる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはないでしょう。」

 「子どもたちが出会う事実のひとつひとつが種子だとしたらさまざまな情緒やゆたかな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です。幼い子ども時代はこの土を耕すときです。」

 「鳥の渡り、潮の満ち干、春を待つ硬い蕾のなかには、それ自体の美しさと同時に、象徴的な美と神秘がかくされています。自然がくりかえすリフレイン−夜の次に朝がきて、冬が去れば春になるという確かさ−のなかには、かぎりなくわたしたちをいやしてくれるなにかがあるのです」

 このようにかたられるセンス・オブ・ワンダーという感性は、自然教育や環境教育、幼児教育などの分野で注目されています。

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