レイチェル・カーソン日本協会のあゆみ
1 「レイチェル・カーソン生誕80年記念事業」
1987年、「レイチェル・カーソン生誕80年記念事業」が実施された。この記念事業は、全大阪消費者団体連絡会事務局長の下垣内博の発案をベースに、最終的には166人の準備委員が「カーソン女史を偲び、かつ彼女の警告を現実に照らして考えてみよう」との思いのもとに企画された。準備委員は、研究者、弁護士、栄養士、ジャーナリストなどの専門家、消費者・市民運動のリーダー、主婦などなど、年代も20代から80代に及んだ。記念事業の中心企画は、1987年5月27日、大阪で開催の「レイチェル・カーソン女史生誕80年記念日本集会」であった。300名を以上の参加者があり、第一部のシンポジウム「沈黙の春は終わっていない」(パネラー・福島要一、中南元、野村かつ子、コーデイネーター・林いく)、第二部の記念講演(アメリカのレイチェル・カーソン協会のジェイ・フェルドマン理事)と、充実した「つどい」であった。そして、「地球に沈黙の春をもたらしてはなりません。カーソン女史に学び、女史が『沈黙の春』で教えてくれたことをより多くの人々に語りつぎましょう」とのアピールを採択。翌28日の「京都集会」で、「カーソン女史の警告は生きています。カーソン女史の偉業を語りつぎ、美しい地球を未来の子供たちにゆずりわたすことができるよう、行動を開始しましょう」と宣言した。
また、記念事業として上遠恵子委員の手により『レイチェル・カーソン―その生涯』が執筆・出版された。更に、絶版になっていたカーソン関連書の復刊についても、各版元との話し合いなどの諸活動により、フランク・グレアム・ジュニアの『サイレント・スプリングの行くえ』を版元の同文書院での未処分在庫を委員会が買い取り希望者に販売した。また、新潮社から『沈黙の春』新装され出版された。
2 レイチェル・カーソン日本協会の設立
「生誕80年記念日本集会」はアピールと共に「多くのかたが灯してきた火をさらにあかあかと燃やし続けるために、記念事業推進委員会が解散したあと、あらためて志を同じくするものがレイチェル・カーソン日本協会のようなものをつくりましょう」の提案を満場一致で決定した。この決定にもとづき、1987年12月19日、記念事業推進委員会は解散、即日、「レイチェル・カーソン日本協会設立準備会」が発足した。準備会を重ね、1988年4月14日、「レイチェル・カーソンを偲ぶつどい」の開催と共に第1回設立発起人会をもち「設立趣意書」「協会規約案」「設立総会の持ち方」などを決定。また、役員選考委員会メンバーを確認し、役員選考作業を開始した。
「日本集会」から1年、1988年5月27日、大阪府立消費生活センターにて、レイチェル・カーソン日本協会設立総会を開催。総会には102名が参加し「設立までの経過報告」「設立趣意書」「協会規約」などを一部修正のうえ全会一致で承認した。
「協会規約」には「本会は自然を広い視野で捉え、農薬など化学物質による環境汚染の危険を警告したレイチェル・カーソン女史の哲学を学び伝えるとともに女史の努力を継承し、化学物質から自然と環境を保護する意義を普及し、その研究及び活動の交流を図ることを目的とする」と協会の「目的」を明記した。
日本協会、初代代表委員には磯村隆文、上遠恵子、川島利雄、鈴木善次、末石冨太郎、福島要一、水木モリエが就任した。他に理事、監事、評議員を役員として選任した。
日本協会は早速「会報」の発行準備を進め、会報第2号(設立総会当日第1号が発行されているので事実上の最初の会報にあたる)1988年10月に発行した。
また、自然観察や交流会を企画し、大台ケ原、長野県三水村リンゴ村、伊勢・伊良湖へのツアーなどを実施した。
講演会やシンポジウムなどの企画も進めた。1989年5月27日に「カーソン生誕82年のつどい」を朝日新聞の石弘之編集委員を講師に招き「地球環境の危機について」考えた。1989年9月には「地球環境と大気汚染を考える国際市民シンポジウム」の主催団体にも加わった。
3 環境問題への関心の高まりの中で
1990年4月22日は「90アースデー」であった。レイチェル・カーソン日本協会も「90アースデー」に協賛し、4月14日、アースデー90ネットワークとの共催によるシンポジウム「地球を救うために今何が必要か―わたしの提言」(パネラー・岩本智之、沢井清、ジェイムズ・P・グリフィス、谷美代子、上遠恵子、コーデイネーター・林いく、原強)を開催した。また、このシンポジウム終了後に開催されたレイチェル・カーソン日本協会第2回総会で、会報の充実、交流集会やツアーの企画、出版・啓蒙活動、資料整備、アメリカのレイチェル・カーソン協会との交流などの活動方針を決定した。1990年7月14日、カーソンの最後の著作『センス・オブ・ワンダー』をとりあげた講演会で、日本協会の理事、竹内通夫・金城学院大学教授が、カーソンが養子のロジャーに対して自然を常に驚きと感激のうちに理解できるようにと行った自然観察・環境教育の実践を例に、「子どもたちに対する環境教育こそ重視されるべきである」と強調した。この日、カーソンの『センス・オブ・ワンダー』にはじめてふれ、あらためてカーソンの思想が現代にも生きていると感じた参加者は少なくなかった。
11月18日に放映されたテレビ番組「知ってるつもり」がカーソンをとりあげた。また、雑誌「ウータン」11月号も、これに先立ち、連載「天才・偉人たちの光と影」の第8回でカーソンをとりあげた。
レイチェル・カーソン日本協会は、1991年4月14日に「91京都のつどい」を京都・法然院を会場に開催し、6月5日に「アジア市民のつどい」、11月18日の「地球サミットを成功させる市民のつどい」などに協賛・参加してきた。
会員交流企画として、1991年2月に福井県美浜方面への自然観察ツアーを企画・実行した。このツアーは、その日、関西電力美浜原発事故の発生に遭遇するというハプニングもあった。
4 『沈黙の春』出版30年の年に
1992年は『沈黙の春』が世に出て30年目の年であった。この年にあたり、レイチェル・カーソンが『沈黙の春』で何を訴えようとし、私たちは何を学ばなければならないのか、ということを考えあう取組がすすめられた。4月18日、名古屋で日本協会第3回総会につづき、「『沈黙の春』発刊30周年のつどい」を開催した。この「つどい」は200名を超える参加者で、大成功であった。シャーリー・ブリッグスさんのメッセージ紹介、上遠恵子代表理事のレイチェル・カーソン紹介につづき、秋山紀子青山学院短期大学の講演「『沈黙の春』の現代的意義」、谷山鉄郎三重大学教授の特別報告「湾岸戦争後の環境破壊と汚染状況」、東海地区の諸団体からの報告と、多くのプログラムが実施された。
6月7日、京都でも「記念のつどい」を開催した。上遠恵子代表理事の講演「カーソンの生涯に学ぶ」、藤原邦達日本生協連食の安全委員会代表幹事の講演「『沈黙の春』の現代的意義」を行った。
また、これに先立ち、日本協会編によるブックレット『「沈黙の春」を読む』がかもがわ出版から出版された。この年に作成されたカーソン肖像はがきは好評であった。
この年の自然観察ツアーは10月に三重県上野市の「天地農場」訪問ツアーを実施した。
1993年4月の「アースデーのつどい」には講師に高田宏氏を迎え、京都で開催した。
5 国際交流のひろがり
レイチェル・カーソン日本協会は、各種の国際的なシンポジウムや交流集会に協賛・賛同するとともに、国際交流の活動をひろげてきた。1992年2月、日本子孫基金の招きで来日したアメリカ農薬誤使用反対連合(NCAMP)のスーザン・クーパーさんの講演会を開催した。
続いて3月、日本協会結成以来の懸案の課題であったアメリカのレイチェル・カーソン協会への代表派遣を実現した。代表団は、レイチェル・カーソン協会でシャーリー・ブリッグス氏らとの交流のほか、NCAMP他の環境NGOを訪問した。
1992年6月にブラジルで開催された地球サミットに際して、ポール・クラーク氏提唱の「マンデート署名」に協力し、同時に代表を派遣した。
1993年、日本協会はレイチェル・カーソンの足跡を訪ねるアメリカ・ツアーを企画。ツアーは8月23日〜31日の日程で、ワシントンのレイチェル・カーソン協会、スプリングデールの生家、チャタム・カレッジのレイチェル・カーソン研究所、ウッズホールの海洋生物研究所などを訪問し、多くの成果を収めた。
6 没後30年記念事業の実施
1994年4月14日はレイチェル・カーソンの没後30年目に当たることから、一連の記念行事を企画・実施した。1993年5月から「レイチェル・カーソン没後30年記念・読書感想文コンクール」が実施し、全国から471通の応募を得た。
また、レイチェル・カーソン生誕80年記念事業委員会の手により刊行された上遠恵子代表理事のブックレット『レイチェル・カーソン―その生涯』をかもがわ出版から再版し、より多くのが入手可能となった。
「記念のつどい」には、アメリカのレイチェル・カーソン協会事務局長のダイアナ・ポスト氏をゲストに招き、奈良県桜井、名古屋で「つどい」を開催した。また、博多、京都でも関連行事が開催した。ダイアナ・ポスト氏は「カーソンの思想を語り継ぐ」と題して記念講演を行った。8月には集中講座「『沈黙の春』の世界」を実施した。
7 カーソンを語り継ぐ
1995年の「アースデーのつどい」は、4月14日、岡山で、岡山県消費者団体連絡協議会他、地元の市民団体の協力のもとに開催した。ゲストに環境ジャーナリストの岡島成行氏を招請した。また、好評であった読書感想文コンクールを引き続いて実施した。
大阪では、5月から7月にかけ、連続講座「レイチェル・カーソンと現代」を企画・実施した。また、秋にはグッズの製作を企画し、カーソンの肖像レリーフ、肖像ペンダント、モナーク蝶をデザインしたハガキを作成した。
1996年4月20日、「96レイチェル・カーソンのつどい」が富山で、生活協同組合COOPとやまとの共催により開催された。講演はフォトジャーナリストの中村梧郎氏で、枯葉剤からごみ問題まで幅広くとりあげた講演「環境汚染とダイオキシン」は好評であった。
1996年8月、第二回アメリカ・スタデイツアーを実施した。このツアーではワシントン、ピッツバーグでアメリカのレイチェル・カーソン協会、レイチェル・カーソン生家協会、チャタム・カレッジの関係者との交流を深めると共に、ピッツバーグ再生の経験や環境都市デービスの実践などにも学んだ。
京都ではレイチェル・カーソン京都セミナーが継続されたほか、関東地区での会員の交流の場も持たれるようになった。
8 生誕90年記念事業
1997年5月27日はレイチェル・カーソン生誕90年の記念日であった。レイチェル・カーソンの生涯や思想を語り継ぐことを通じて化学物質による環境汚染問題について考えあう活動を進めてきたレイチェル・カーソン日本協会は、また新たな想いで「生誕90年記念事業」を企画・実施した。第三回読書感想文コンクールを企画・実施、高知、京都、大阪で「記念のつどい」を開催した。「高知のつどい」は、立川涼高知大学学長の挨拶につづき、上遠恵子代表理事、上岡克巳高知大学教授の講演を中心に構成した。「京都のつどい」は鈴木善次代表理事の講演「レイチェル・カーソンと現代」を中心に構成し、大阪の「日本集会」ではシンポジウム「エコロジー、遺伝子、温暖化・・・生命危機の時代と私たちの暮らし カーソンの思想を語り継ぐ」をもった。また、これらの「記念のつどい」に対してアメリカのレイチェル・カーソン協会、生家協会、チャタム・カレッジからメッセージが届き、海をこえる交流を深める機会になった。また、関東地区での交流活動の積み上げを基に、9月27日、東京で「関東のつどい」を開催。岡島成行氏の講演「『沈黙の春』から35年、いま世界の環境は」がメイン企画であった。
9 日本協会設立10年記念事業
1998年5月27日、日本協会は設立10年の日をむかえた。日本協会は、3月26日に大阪において第6回総会とあわせて設立10年記念講演会を開催し、講師に『奪われし未来』の著者ダイアン・ダマノスキ氏を迎えた。彼女は3月28日、東京でも講演された。
回を重ねてきた読書感想文コンクールも実施した。
5月1日、日本協会は、公害防止や環境保全にとりくむ団体・個人を助成するために創設された「ノーモアミナマタ公害環境基金」から第一回ノーモアミナマタ環境賞を受賞した。この助成をもとに、11月25日、日本協会設立10年を記念する論稿集『「環境の世紀」へ いまレイチェル・カーソンに学ぶ』がかもがわ出版より出版した。
10 法人組織として
1999年4月4日、日本協会は特定非営利活動法人として法人格を取得するための総会を開催した。総会で、設立までの経過報告、設立趣意書、定款、事業計画等を承認するとともに、設立代表者として上遠恵子代表理事を選出した。また、理事、監事、評議員などの役員を選出した。総会終了後、総会を記念するシンポジウムとして「環境教育とレイチェル・カーソン」を開催した。4月21日、大阪府に認証申請手続きを行い、8月9日、日本協会は特定非営利活動法人(NPO)として認証され、新たなあゆみをはじめた。
9月から11月にかけ、普及・啓発活動として連続講座「環境の世紀へ」を実施した。このような連続講座は、読書感想文コンクールとともに、毎年の定例の事業になった。
一方、各地で地域ごとの活動も活発化してきた。関東地域の会員交流活動も「関東フォーラム」として学習・交流の場を発展させた。高知でもレイチェル・カーソンを語り継ぐ活動が継続的に進められている。
2000年から2001年にかけて映画「センス・オブ・ワンダー」が制作された。日本協会はこの活動を支援し、上映運動にも協力行った。
11 『沈黙の春』出版40年
このような中、『沈黙の春』出版40年の年をむかえた。4月14日、東京で、6月16日、京都で、それぞれ記念行事が企画・実行された。東京・日本科学未来館で開催された「記念のつどい」では、鈴木善次副理事長が基調講演を行い、「カーソンの警告に耳を傾け、これからの文明のあり方を考えよう」と問題提起を行った。これを受け、「レエイチェル・カーソンを語り継ぐ」と題したシンポジウムで、上遠恵子理事長のコーデイネートのもと、神山美智子、中島貴子、若林千賀子、鈴木善次の各氏が意見を述べた。また、この場で第7回読書感想文コンクールの結果発表も行った。
京都教育文化センターでの記念行事では、京都大学の松井三郎教授が環境ホルモン研究の最前線での問題をレポートした講演に続き、映画「センス・オブ・ワンダー」を上映した。また、これに前後してジュンク堂京都店などでの「カーソン写真展」や連続講座を実施した。この年、リンダ・リアの『レイチェル』が翻訳出版されたことも意義深かった。
12 多彩な活動のなかで
カーソンを語り継ぐ活動を、ひきつづいて各地で進めた。「関東フォーラム」では自然観察会や読書会活動を進め、「清里フォーラム」の開催につながった。また、2004年のカーソン没後40年記念行事は千葉県浦安市で「われらをめぐる海・三番瀬」として企画開催したが、これも「関東フォーラム」の平素の活動の上に成り立った企画であった。関西では、連続的に開催される講座活動と併せて、化学物質リスクの削減をめざす講演会、フォーラム活動を進めた。
京都では「レイチェル・カーソンの世界へ」と題した「講演と音楽のつどい」を実施した。この行事はカーソン没後40年記念行事であるとともに、上遠恵子理事長の『レイチェル・カーソンの世界へ』の出版記念行事であった。
高知でも、レイチェルの会の活動が継続的に取り組まれ、2005年4月、「センス・オブ・ワンダー」出版40年記念行事「レイチェル・カーソンの世界へ」を高知で開催した。
日本協会が実施する「読書感想文」コンクールも第8回まで回を重ねた。
13 CHEJとの交流
2005年、日本協会は、国際交流基金日米センターの助成のもとに、アメリカの環境NGOであるCHEJ(健康・環境・正義支援センターCenter for Health,Environment and Justice)との交流事業にとりくんだ。CHEJは、アメリカの環境汚染問題の歴史に残るラブ・キャナル事件のなかで住民の利益のために活動した組織がもとになって作られ、現在は産業廃棄物処分場問題などで重要な役割を果たしている。
交流事業は、ワシントン在住の谷脇多佳子氏のコーデイネートのもと、CHEJの科学デイレクターのステイーブン・レスター氏、子どもの健康キャンペーン担当のステイシー・ゴンザレス氏の両名を招き、京都・東京で講演会を持った。京都、東京、それぞれの講演会はきわめて有意義なものなったほか、京都では、滋賀県栗東市の産廃処分場問題の現場視察・交流、東京では安孫子市の環境問題の視察・交流を伴うものであった。これらの事業は、日本協会にとっても、CHEJにとっても、非常に重要な交流の機会になった。
14 生誕100年記念事業
2007年はレイチェル・カーソンの生誕100年を記念する年であった。日本協会は、2006年5月27日から「記念キャンペーン」を開始し、各方面への協賛・協力の依頼、企画準備などに力を入れて取り組んだ。また、「読書感想文」コンクールの経験をふまえ、今回は「レイチェルへのお手紙」募集企画を実施した。記念行事は、3月の東京での行事にはじまり、5月の京都、6月の大阪、8月の高知へと連続的に企画・実施した。行事内容は、講演会、展示企画、交流行事など、それぞれの地域ごとの創意を生かしたものであった。
「レイチェルへのお手紙」募集企画には、学校単位での取り組みも含め、大きな反応があった。5月27日の「記念のつどい」で入選作品を紹介した。
また、7月から9月にかけては北海道大学で講演会と展示企画がとりくまれたのに、日本協会も協力した。
「生誕100年」を記念する出版企画としては、ミネルヴァ書房から『レイチェル・カーソン』が出版された。2008年2月には、『レイチェル・カーソン』出版記念行事を東京で開催した。
15 組織改革を経て
このような活動を進めてきたことにより、日本の社会のなかにレイチェル・カーソンの生涯や業績が次第に広まってきた。とくに、最近では、学校教育の現場でもレイチェル・カーソンが教材としてとりあげられる機会も目立ってきた。他方で、日本協会の組織運営をめぐり、発足から20年が経過するなかで、組織のリフレッシュをはかる必要性が指摘されることが増えてきた。総会、理事会で「日本協会の今後の在り方」をめぐり意見交換を深めた結果、最終的に、特定非営利法人格の返上、各地域に根ざした組織づくりと、そのネットワーク化をすすめるという立場から組織改革を行うことになった。
2008年3月15日、特定非営利活動法人格を返上するための「解散総会」を持つと共に、当面、関東フォーラム、関西フォーラムを拠点にした「ゆるやかなネットワーク組織」としてレイチェル・カーソン日本協会が再発足した。
これを機に新たな活動のひろがりを期待するところである。